二月二十一日

         カワサキのイメージ

  ここ数年、私の勤務地である神奈川県川崎市の印象がどうも悪い。

昨年の今頃、多摩川の河畔で中学生が友人の少年たちによって殺害された。その裁判が先日、横浜地裁で始まったので傍聴を希望したが、ものすごい倍率で弾かれてしまった。しかし、いじめというには陰惨極まる嫌な事件だった。

またつい最近、三年前に幸区の老人ホームで発生した入居者の度重なる落下死亡事故に対して、これがじつは殺人事件だったとして立件された。まこと高齢化社会が行き詰った挙句に発生した悲劇とも言える。

 簡易宿泊ホテル(通称ドヤ街)が全焼して死者を出した事故もあった。被災者の多くは、格差社会のなかで、そこでしか暮らせない社会弱者たちであった。

 

 川崎は、わが国の高度経済を牽引したチャンピオンであり、それゆえの深刻な工場公害で毀損した街である。労働者の街であり、それゆえの歓楽を謳歌した街でもある。そうした物質的な宿唖の時代を経て、しかし最近は、社会構造的、人的な事件が頻発する街になってしまった。これでは印象も悪くもなる。

 

 川崎は古来、多摩川と鶴見川に挟まれ、果樹もたわわに生る肥沃な土地柄だった。縄文人も住みついて丘陵の南斜面に竪穴住居を連ねた。7世紀に律令制度が確立されるや「武蔵の国」となり、平安末期には大きな荘園を得て有力豪族が統治した。鎌倉時代には僧・空海の創始建立した「川崎大師」が庶民の篤い信仰を集め、門前町の繁栄は今日に至っている。江戸時代になると東海道五十三次が整備され、日本橋から数えて三番目の宿場町として、また大山信仰登山の途中駅として賑わった。明治維新を迎えると、浅野財閥が海浜地区を埋め立て、鉄鋼、造船、セメントなどの基礎産業が勃興して京浜工業地帯を形成した。まこと素晴らしき都会史と産業史に彩られた都市なのである。

 

 私はいま、この街の地先の海(東京湾)を埋め立てた「扇島」に建つ製鉄所で工場見学を担当している。およそ四十年間奉職してきた企業に対して、多少の恩返しのつもりでいる。私のもとに毎日、小学五年生がやってくる。社会科の授業の一環として見学にやってくるのだ。製鉄所の話、化学の話、環境の話をしてやるのだが、話の最後にいつも、この川崎の街の素晴らしさを、その天性と努力の歴史を滔々と喋ることにしている。

    春一番を工都へ送る我が職場  元夫