三月五日

比叡の僧

 

今日は本当にすごい絵を見た。「第18回華の墨絵会展」(横浜市市民ギャラリー/3月7日まで)のひとつ、内田美紅氏の「比叡の僧」という作品。

延暦寺の山路であろうか。絵の中では7人の僧が一列に並んで歩いている。作者の筆は、その後ろ姿をしっかりと追う。従って僧らの表情は分からないのだが、剃髪した後頭部の傾きなどから推測されることがある。最後尾の壮年の僧は明らかに前を行く一団をケアしている。中間を歩く老僧は危険な岨路に注意深く目を落としている。その前の僧は遠い峰々に目を遣っている。そんな各僧の視線が思量されるのだ。これが画家の力量というものなのだろうか。

この絵の前でしばし私の目はくぎ付けになった。よく見ているとおかしな錯覚に陥る。僧の列が、この一列の僧列が動き出すのだ。覇気を持って彼らはしっかりと歩いている。小路はじつは手前から下り、途中の僧から登りにかかっているようにも見える。それに7人と言ったが、その先頭は半身に山霧を纏っており、じつはさらにその先にまだ僧が歩いているのかも知れないと思わせる。このあたり、墨絵独特の朦朧性を上手く生かしている。背景の杉の木立も墨絵の利点のみを生かして清冽に描かれている。

こんな絵を私の寝室の壁に掛けたいものだ。佳い夢路に誘ってくれるような気がした。いやいやそう安らけくもないか。作者・内田美紅という方とは面識も知識もないが、スケッチ画布を構えながら、刻々と近づいてくる「比叡の僧」を待つときのドキドキ感、わくわく感は察して余りある。

二月二十一日

         カワサキのイメージ

  ここ数年、私の勤務地である神奈川県川崎市の印象がどうも悪い。

昨年の今頃、多摩川の河畔で中学生が友人の少年たちによって殺害された。その裁判が先日、横浜地裁で始まったので傍聴を希望したが、ものすごい倍率で弾かれてしまった。しかし、いじめというには陰惨極まる嫌な事件だった。

またつい最近、三年前に幸区の老人ホームで発生した入居者の度重なる落下死亡事故に対して、これがじつは殺人事件だったとして立件された。まこと高齢化社会が行き詰った挙句に発生した悲劇とも言える。

 簡易宿泊ホテル(通称ドヤ街)が全焼して死者を出した事故もあった。被災者の多くは、格差社会のなかで、そこでしか暮らせない社会弱者たちであった。

 

 川崎は、わが国の高度経済を牽引したチャンピオンであり、それゆえの深刻な工場公害で毀損した街である。労働者の街であり、それゆえの歓楽を謳歌した街でもある。そうした物質的な宿唖の時代を経て、しかし最近は、社会構造的、人的な事件が頻発する街になってしまった。これでは印象も悪くもなる。

 

 川崎は古来、多摩川と鶴見川に挟まれ、果樹もたわわに生る肥沃な土地柄だった。縄文人も住みついて丘陵の南斜面に竪穴住居を連ねた。7世紀に律令制度が確立されるや「武蔵の国」となり、平安末期には大きな荘園を得て有力豪族が統治した。鎌倉時代には僧・空海の創始建立した「川崎大師」が庶民の篤い信仰を集め、門前町の繁栄は今日に至っている。江戸時代になると東海道五十三次が整備され、日本橋から数えて三番目の宿場町として、また大山信仰登山の途中駅として賑わった。明治維新を迎えると、浅野財閥が海浜地区を埋め立て、鉄鋼、造船、セメントなどの基礎産業が勃興して京浜工業地帯を形成した。まこと素晴らしき都会史と産業史に彩られた都市なのである。

 

 私はいま、この街の地先の海(東京湾)を埋め立てた「扇島」に建つ製鉄所で工場見学を担当している。およそ四十年間奉職してきた企業に対して、多少の恩返しのつもりでいる。私のもとに毎日、小学五年生がやってくる。社会科の授業の一環として見学にやってくるのだ。製鉄所の話、化学の話、環境の話をしてやるのだが、話の最後にいつも、この川崎の街の素晴らしさを、その天性と努力の歴史を滔々と喋ることにしている。

    春一番を工都へ送る我が職場  元夫

 

二月二十日

   わが懐かしの海外展示会(1)       

 1980年代の終わりから90年代のはじめにかけて、私は大手鉄鋼会社の広告宣伝を担当していた。折から経済のグローバル化の進行とともに、企業間に差別化・識別化が問われはじめたころだ。当然自社の広報、広告、宣伝に注力する企業が目立ってくる。しかしわが鉄鋼業界においては、そのニーズは著しく乏しかった。装置産業として長く寡占状態に安穏としてきた鉄鋼業界にその必要がなかったからである。強いてあったとすれば採用活動(とくに高卒男子の金のタマゴ目当ての)でのものだった。ところが私の企業は鉄鋼のほかに造船やエンジニア部門事業の主軸に副えていた。とくにエンジニア事業では国内外のコンペティターと鎬を削っていた。そこで会社は宣伝を強化するようになった。「宣伝」とは「宣布伝化」の略だから、要は相手の目を騙すということだ。そのために美しいカタログや技術資料をつくり、当時はまだ黎明期だった展示会という宣伝機会に注目し始めていた。

 この展示会というツールの制作はおもしろかった。3メートル×3メートル=9平方メートルを1小間(コマ)とし、大体10小間前後の敷地に自社ブースを建設する。そのエリア内では何を作ってもよい、どんなパフォーマンスを展開してもよい。精巧な模型やテクナメーションという電光説明装置などを持ち込んだり、美人の説明者に説明させたり・・・。

 私の会社は海外展示会にもよく参加した。いまパスポートの記録をみると、私は計23カ国に行っている。普通、私たちの仕事は、本番(展示会は4~5日程度)の1週間ほど前に代理店とともに現地に乗り込み、ブースを建設する。

忙しい営業マンは会期前ギリギリに現地入りしてくるから、それまでに準備万端整えなければならない。

 1985年、アメリカ・ピッツバーグで展示会「スチールビッグショー」が開催された。これが私にとってはじめての海外デビューだった。当社からは製鉄エンジニアリング部門が「水平連鋳設備」の売り込みをかけていた。アセアンなど新興諸国では、高炉から鉄を作るには投下資本が莫大すぎる。そこで鉄屑(鉄スクラップ)を溶解し、水平状態に引き抜いて鋼板や形鋼を簡易に製造できる設備が水平連鋳なのである。展示会の主役はこの精巧な模型だった。日本の産業模型会社で500万円かけてつくった。手許のボタンを押すと模型の各部位が動く精緻を極める模型だった。

 開催1週間前、当社のコンテナが地元の展示会社の倉庫に届いた。しかし、この木箱を開けたとき、私は愕然とした。日本を出るときは厳重に養生梱包したはずの水平連鋳の模型が、途中の船揺れで大破していた。  (つづく)

二月十八日

 豊穣の余裕さえ見せて

~伊東泉の世界~

 

 硝子工芸画(パート・ド・ヴェール)の世界は飽きない。糊で練ったガラス粉をいろいろな型に充填して焼成する技法で、紀元前16世紀にメソポタミア地方で開発されたようだ。19世紀末、フランスのアンリ・クロが試行錯誤の末に、この古代技法を復活させた。ガラスの中の細かい気泡が作者の内面を反映するから、アール・ヌーボーやデコの時代に大きく注目され今日に至っている。伊東泉さんはわが国、現代パート・ド・ヴェールの第一人者であろう。

 その近作を「グループ・燦」の展示会(2月7日まで、藤沢ルミネ6階催事場)で観た(写真)。一言で言えば、泉さんの豊穣の内奥がよく出た作品群であった。

 「燦」の発表会はここ数年ずっと見続けてきたが、グループとしての発表の場を東京・銀座から地元・藤沢に移したことが「吉」の方向に出たと思う。いや何より泉さんの人生が充実期に入ってきたことを慶ぶべきだろうか。数年前、銀座の画廊で観た「禱り」は、ガラス粉を少し立体的な「聖書」仕立てにしていたが、美しくはあっても感性が鋭角に尖っていて何となく作者の「イライラ感」が前面に出ているように感じたものだ。今回の作品は、皆かなり余裕をもって鑑賞できた。パート・ド・ヴェールは作者の制作意図に敏感に反応する。例えば、今回の作品はどれもソフトな「朦朧感」に包まれていて、線が二本あったり、大小であったり、交錯したり交わらないものもある。これは明らかに泉さんの現環境を暗示しているかのようだ。どれが誰とは言わないが・・・。「人生はここからが面白い」とのみアドバイスしておこう。

 

 泉さんと私は、巨人・大畑等(前・現代俳句協会IT部長)に何度もぶつかっては跳ねかえされてきた《同盟軍の戦士同志》である。その大畑氏が旧臘突然に身罷った。もう、あの楽しい日々は帰らない。今はただ、深海の底を見つめるように深く祈るしか・・・それしか、ない。朦朧としたパート・ド・ヴェールの、しかしふんだんに明るい光にうち沈んでいるこれらの作品のように・・・。

 

春光や堪えても堪えても堪えても燦  元夫

小野元夫俳日記より)

二月十七日

下津井湊(みなと)唄(うた)

小野元

 

岡山県下津井地区は、北前船の廻船基地として

古くから栄えた瀬戸内の要港である

瀬戸大橋芽吹く四国へ身を伸ばす

霞みつつ羽ばたき揺るる鷲羽山

妓楼まで浮世を巡り春の水

宵や春備前の皿に蛸づくし

春日に干す無傷自慢の章魚(たこ)ばかり

春遍路来たり廻船問屋辻

中川龍生岡山支部長十八番の民謡「下津井節」

元禄の椿咲き継げ湊唄